さようなら原発―原発問題をかんたん解説

1.福島でなにが起こっているのか

 3月11日14時46分頃、三陸沖でマグニチュード9.0にも及ぶ巨大地震が発生し、さらに大津波が東北地方、そして東日本全域の沿岸を襲いました。死者・行方不明者数は2万人を超えています。住居・交通・通信・医療などのライフラインは喪失し、いまなお多くの人々が苦しい避難生活を強いられています。被災者の救援と復興に向けたとりくみが喫緊の課題となっています。

 東日本大震災はその人的・経済的規模だけを見ても未曾有のものですが、さらに恐ろしい事態を引き起こしています。福島第一原子力発電所での重大事故です。
20km以内の避難対象者・20-30kmの屋内退避対象者
に限っても、十数万人にも及ぶ人々が生活環境を失ったままです。数十万テラベクレルと言われる放射性物質が東日本のみならず風や海流によって拡がり続け、人々の命と健康に大きな不安をもたらしています。

過酷な事故の実態
 福島第一原発では、原子炉の運転自体は緊急に自動停止したものの、津波によりオイルタンクが流出し、非常用電源は全て動かなくなり、非常用炉心冷却装置が注水不能に陥りました。また使用済み核燃料プールも冷却不能になりました。
その結果、同原発1・2・3号機では核燃料棒が崩壊熱でメルトダウンするに至り、炉内で発生した水素が爆発し、原子炉建屋や原子炉内圧力容器、そして格納容器までが破損しました。また4号機でも核燃料プールの冷却機能喪失―水素爆発に至っています。原子炉を制御する各種の計測器は故障するなか実際事故の実態がいかほどのものであるのか把握できず、かと言って強い放射線によって原子炉に近づくこともできず、事故の収束を図ることができないという危機的状況が続いているのです。

「原発は安全」はウソだった
 今まで政府・電力会社は、たとえ事故が発生しても放射性物質は五重の防護設計によって「止める」・非常冷却装置によって「冷やす」・格納容器によって「閉じ込める」、だから安全なのだと喧伝してきました。しかし現実にはこの安全策のいずれとして機能しなかったことが明らかになっています。
 原発は地震には十分耐えたが大津波が「想定外」のものだった、などと言い訳していますが、様々なデータは地震発生時点で原子炉の機能が破壊された可能性を示唆しています。また、福島第一原発以外でも地震発生時に運転中だった東京電力・福島第二原発、東北電力・女川原発、日本原電・東海第二原発の計11基の原子炉においても外部電源を喪失するなどの重大な事態に陥り、六ヶ所再処理工場でも非常用電源が稼動する事態となっています。この「地震列島」日本で、「安全な原発」はそもそも存在し得ないものであることは、もはや明白です。

2.放射能がもたらすもの

被曝とはなにか
 被曝には「外部被曝」「内部被曝」の2種類あります。外部被曝は放射性物質が外にある場合、例えばレントゲン撮影や核兵器の爆発による「被爆」がこれにあたります。一方、内部被曝は体に取り込まれ、放射性物質が人体の細胞に放射線を浴びせ続けるものです。
 外部被曝はその被害を軽減させるための方策(遮蔽する・逃げる)もありますが、内部被曝は体内のことですから一度起きてしまうと対処が大変難しいものになります。内部被曝の恐ろしいところは、日常生活に必要不可欠な、空気・食べ物・水といったものを通じて放射性物質が取り込まれるということです。いくら被曝を避けようとしても、そこに暮らす人々が生きていく以上は、何らかのかたちでの被曝が強制されるのです。

被曝が人体にもたらすもの
 放射線に被曝すると現れる身体的な影響 、すなわち放射線障害には2つのタイプがあります。「急性障害」と「晩発性障害」です。急性障害は一定以上に強い放射線に曝された場合に発症し、吐き気・(放射線による)やけど・造血機能障害・不妊などの症状、さらには死に至ることもあります。一方「晩発性障害」はそのときには目に見える症状が出なくても、細胞内の遺伝子を傷つけられることによって、将来的に白血病やがんなどの病気を引き起こすものです。
 この「晩発性障害」には、たとえそれがどんなに弱い放射線であったとしても、その受けた放射線量に応じて症状が発生するリスクが高まるという性質があります。つまりどのようなかたちであれ、被曝は人体に被害をもたらし得るものであるということなのです。
 被曝が恐ろしいのは、放射線が人体の細胞内の遺伝情報を傷つけるために、細胞分裂の盛んな若い人ほど、その被害を受けやすいという事実です。とくに、放射線による発がん作用の感受性の高い子どもたちの被害については、心配してもしすぎるものではないと言えるでしょう。

図:「放射能は、体の中で特定の場所に」

3.原発でなければダメですか

“震える”国土に……
 日本は地震列島と呼ばれるほど、地震の多い国です。しかも国土は狭い。そこに54基もの原発が建っているなんて恐ろしい話です。これまで、日本の原発はスリーマイル(注1)やチェルノブイリ(注2)とは違い、安全だと言われてきました。しかし、ひとたび巨大な地震に見舞われれば、様々な機器が壊れ、「五重の壁」(注3)などと呼ばれるような安全装置も、いざとなれば役には立たないことが、福島第一原発事故では明らかとなってしまいました。その結果、“フクシマ”は世界最悪と言われたチェルノブイリと並ぶ原発事故となってしまいました。
 原発は原爆と同じく、その燃料はウラン、またはプルトニウムです。原発を動かせば「原発のゴミ」、「使用済み燃料」などと呼ばれる高レベルの放射性廃棄物が出ます。その捨て場所もないのに、原発は動かされています。原発が「トイレなきマンション」といわれる所以です。その解決方法として考えられたのが「再処理」です。使用済み燃料の中から、新たに生まれたプルトニウムを燃料に再加工するために取り出し、それをまた燃料として使おうということなのですが、青森県六ヶ所村の六ヶ所再処理工場は、何度も試験運転で失敗をくり返し、商業運転開始のめどは立っていません。

“安くない”エネルギー
 原発推進派はその根拠として、コストの安さを強調します。しかし、原発建設時の自治体対策費(交付金)、老朽化原発の廃炉にかかる費用、今回のような事故が起きたときの被害者への補償などを考えただけでも、とても安いとは思えません。それらは、私たちが支払う電気料金の中からまかなわれるのです。
 ひとたび事故が起これば、環境中に大量の放射能を放出し、何年にもわたって汚染を続ける。事故が起こらなくても、高レベルの放射性廃棄物の捨て場がなく、どんどん溜まっていく。さらに言えば、ウラン採掘のときから、先住民に核被害を与えるのが原発の真の姿です。私たちは、それでも原発の電気を使い続けなければダメなのでしょうか。

核燃料サイクルの話 ―どうする「原発のゴミ」
 核燃料をつくる一連の流れと、燃やした後の核燃料と放射性廃棄物の後始末をする仕組みのことを「核燃料サイクル」といいます。流れはウラン採掘から始まりますが、そのウランも、60年~100年以内に枯渇するという試算があります。
 再処理してできたプルトニウムは、高速増殖炉で使われることを前提とされてきましたが、福井県敦賀市の高速増殖炉もんじゅは、開発から40年を経過した今でも、商業化のめどは立っていません。もんじゅは1995年にナトリウム漏れ事故を起こし、15年近い停止期間を経て運転再開したものの、装置の落下事故を受けて、現在は停止となっています。もんじゅには停止中でも一日あたり約5500万円が注ぎ込まれているのです。
 高速増殖炉のめどが立たず、やむなく余ったプルトニウムを普通の原発で燃やそうということになりました。それがプルサーマルです。プルトニウムはウランと混ぜて燃料にします。これをMOX燃料といいます。このMOX燃料を使うプルサーマルこそ、核燃料サイクル行き詰まりの象徴だとも言えます。

図:日本の原発 (東京新聞ウェブサイト)
原発は大量の水で冷やさなければならないので、海の側での建てる必要があり、おのずと地盤の弱い場所へ建設されることになる。

注1:スリーマイル島原発事故…アメリカのスリーマイル島原子力発電所で、1979年3月28日に発生した重大な原発事故。故障や人為的ミスが重なり、炉心溶融を起こす過酷事故となった。
注2:チェルノブイリ原発事故…旧ソビエト(現・ウクライナ)で、1986年4月26日に起きた史上最悪の原発事故。福島第一原発事故は今や、これに並ぶ重大事故と言われている。
注3:五重の壁…これまで、ペレット・燃料棒・原子炉圧力容器・原子炉格納容器・原子炉建屋の5種類の工夫によって、日本の原発は守られているから安全であるとされてきた。

4.自然エネルギーは頼りないか?

弱点こそが自然エネルギーの強み
「日本は資源が少ないから原子力」などと言われます。しかし、実は地形的に見て自然エネルギーに恵まれています。例えば、木質バイオマスなどは、林業再生の取り組みと同時に、大きな可能性を持つ分野でしょう。自然エネルギーの推進は、雇用の創出にもつながります。「おひさま頼み、風まかせ」などと揶揄されて、自然エネルギーは当てにならないという声もあります。しかし、それは太陽光、風力、水力、地熱、バイオマスなど、様々に組み合わせることでクリアできます。しかも、その弱点と思われる点こそが実は、エネルギーの「低消費化」、すなわち省エネルギーにつながる、自然エネルギーの優れた点だと言えるのです。

原発がなければ電気は足りない?
 そうは言っても、今はまだ原発がなければ困るではないか、という声があります。首都圏では福島原発事故直後の、計画停電も記憶に新しいところです。しかし、このときは地震によって原発だけではなく、火力発電や水力発電の施設も同時に壊れたことによる電力不足であって、原発が停止して電力が不足したわけではありませんでした。
 2007年7月の新潟県・中越沖地震の際は、柏崎刈羽原発7基すべてが2年間にわたって停止していましたが、停電は起こりませんでした。2007年は記録的な猛暑だったにもかかわらずです。大電力消費地である首都圏(東京電力管内)では、夏のピーク時にはある程度の節電が求められます。どんなときでも、節電は大事ですが、実際のところ、全国的に見ても本来、原発優先のために止められていた火力や一般水力を動かすことで、電力の供給に支障はないのです。原発がなくても電気は大丈夫。

省エネ~自然エネルギー中心の社会へ
 原発は電力需要に合わせた調整が効かないので、需要がないときでも100%稼働させておくしかありません。一方で、事故やトラブルで停止となればその供給量はゼロです。「Co2を出さないクリーンなエネルギー」など言われる原発も、その代替として火力を動かせば結局、Co2を出さないというわけにはいかなくなるでしょう。
 現時点においても、原発が無くてもやっていけることをまず抑えた上で、省エネルギーを推進し、再生可能な自然エネルギーの利用にシフトしていけば、原発に頼らず、Co2を出す火力などに頼らなくても、十分にやっていける社会をつくることは可能なのです。

図:2050年のエネルギー源別の電力量の割合 (出所:原水禁エネルギー・プロジェクトからの提言)
2008年に設立された「自然エネルギー政策プラットフォーム」によって発表された「2050年自然エネルギービジョン」。2050年までにという長期計画だが、福島第一原発事故を経た今、一日も早い実現が望まれる。一つひとつの割合は小さくても、組み合わせることでまかなえる。

5.やっぱり「さようなら原発」

官民一体の「平和利用」推進
 ここまで原発事故とそれによって生み出される放射能のもたらす影響について概観してきました。しかしこれほどまでに危険をはらんでいる原発が、いつの間に定着することになったのでしょうか。
 日本の原子力行政は1950年代にその端緒を開きます。広島・長崎への原爆投下、そして第五福竜丸のビキニでの被爆(54年)を経験しながら、一方で「未来を切り開くための科学技術」として「原子力の平和利用」が推し進められました。この動きは「平和利用」を掲げながらも、そのじつ国際的な核軍拡競争のなかで軍事転用を多分に意識したものとして行われていったのでした。
 こうしたなかで政府・電力会社が一体となって原子力開発に血道を上げていくことになります。その原動力は、総括原価方式と電源三法交付金に端的に表現されています。

カネまみれの原発
 電力会社は発電・送電・電力販売にかかるコストに一定額を上乗せしたものを基準に電気料金を設定できるのです。すべてコストを回収できるからこそ、原発などというどうしたって建設費がかさむものをどんどん計画できるのです。
 また、原発を受け入れた地方自治体に対しては、地域振興を名目に交付金をじゃぶじゃぶとつぎ込まれます。地方自治体にとって、都市部への人口流出が進み地域経済が疲弊していくなかで、手っ取り早いカンフル剤としてたまらなく魅力的に映りました。

切り裂かれた地域の絆
 政府・企業一体となった札束攻勢で原発計画が持ち上がった地域では、例外なく反対する住民への懐柔と圧力が強力に行われ、その結果地域の人間関係はズタズタにされました。農業・漁業など地域を基盤とする産業は軒並み空洞化し、残ったものは巨大なハコモノばかりです。
 私たちはこの数十年間に及ぶ原子力推進の陰で、苦しみと悲しみのなかで多くの人々の生活が押し潰されてきたことに対し想いを致す必要があります。

海外にも被害をまきちらす
 そもそも原発の燃料であるウラン鉱石は日本ではほとんど産出しないので、海外からの輸入に頼っています。主な産地はオーストラリア・カナダなどですが、採鉱地はいずれも先住民族の居住地域に存在しています。危険な鉱山労働の多くを先住民族たちが担うことになっただけではなく、採鉱の過程で周辺環境を手ひどく汚染され、その被害は先住民族に集中しています。

労働者の被曝は避けられない
 必ずおさえなくてはならないことは、巨大な構造物、さまざまな計器類、複雑な配管をもつ原発の運転のためには、そのメンテナンスのために被曝を前提とした労働が必須になるということです。いくら防御措置をとろうとも、強力な放射線発生源の直近では本質的な安全対策は存在しません。今回の事故でもみられたように、人海戦術で一人あたりの被曝時間を少なくするしかないのです。

危険なゴミは未来へ、海外へ押し付ければいい?
 原発を運転する過程で産み出される核のゴミ=放射性廃棄物は自然のものとは比べ物にならないほどの放射能を帯びています。半減期を繰り返して安全化するまで数千・数万年の時間を必要としますが、そんな期間地上で安全に保管することは不可能なので、数百メートルもの穴を掘って埋めるという「地層処分」が検討されています。しかしこれは安全性に疑問があるだけではなく、結局のところ核の危険の解消を未来の世代に先送りする無責任な発想です。さらに日本国内で「地層処分」を引き受ける場所がどこにもないことから、モンゴルなどの海外にこの危険なゴミを「輸出」しようとしています。

他者の犠牲の上に成り立つ原発はもういらない
 以上のように、原発というものが、いかに誰かにその危険を押し付けるか、そしてそのことによってしか成立しない技術であることは明白です。周辺住民、労働者、海外、そして未来へ――私たちは、これから先も私たちの生活の代償を押し付け続けていくのでしょうか。今まさに、私たちの社会のありかたを私たち自身の手で選び直す岐路に立っていると言えるのではないでしょうか。

全原発54基止めても停電なし!イラスト:高木章次

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