「さようなら原発 さようなら戦争 9.22大集会」報告①

 9月22日(木・祝)、代々木公園で、「さようなら原発 さようなら戦争 大集会」が開催されました。降りしきる雨のなかでしたが、9500人もの方が集い、原発を止め、戦争を止める決意を新たにしました。

 12時からの第一部では、原発事故被災者の現状を、4名の方がお話しされました。司会は松村真澄さん(ピースボート)。

 まず、福島県飯舘村の酪農家・長谷川健一さん(原発事故被害者団体連絡会共同代表、原発被害糾弾・飯舘村民救済申立団団長)のお話。
 事故前は8人家族、牛を50頭ほど飼っていた。孫の姿を見ながらの穏やかな生活が、原発事故で一変。家族はバラバラに避難生活を送り、二度と元の生活はできない、とかけがえのないものを失った深い悲しみを語りました。
 来年3月末での飯舘村の避難指示解除を国は決めたが、飯舘村の現状がいかに悲惨か。汚染土を詰めた黒いフレコンバッグが、7月現在180万個、そして1カ月に10万個くらいのペースで増え続ける。農家が多い地域であり、生産しても売れないであろう農産物の差額補償など、政府は対策を講じるべき。避難解除をするにあたって、政府からは何の確約も保証もなく、「自己責任で帰れ」ということか、と怒りを滲ませました。

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 蛇石郁子さん(郡山市議会議員)は、原発事故から5年半が経ったが、被害者は苦悩の日々を送っている。加害者が誰も責任をとらず、大きな顔をしてのさばっているからだ、と、被害者をなおざりにした復興事業と利権の実態を批判しました。
 また、放射性物質の指定廃棄物の基準が、事故後は8000ベクレル/kgへと80倍も緩められ、本来なら厳重に管理しなければならない指定廃棄物が、安易な焼却、焼却灰のセメント利用、不法投棄などで汚染が拡大している問題の重大性を訴えました。
 郡山市の例では、下水処理施設から出た、放射性物質を含む汚泥の仮設焼却炉の建設・解体が市内各地で繰り返されており、しかも利権がらみの過大な見積もりがなされるなど、情報公開・住民説明を軽視する非民主的方法で事態が進行していると報告しました。
 地震、津波、大型台風が近年日本列島を襲っており、国の方針は安易で無責任。汚染土壌を公共事業で使用しないよう、全国のどの地域でも働きかけてほしい、と訴えました。

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 中手聖一さん(避難の権利を求める全国避難者の会共同代表)は、避難者の苦悩や、特に母子で自主避難をしている人たちが経済的に困窮している状況を報告。2017年3月には自主避難者への住宅支援が打ち切られるが、「いまこの国がやろうとしていることは、帰還して被曝を受け入れるか、貧困に陥るか、その選択を私たちに押しつけている」と批判しました。
 住宅支援は、1年1年の延長で、避難者は将来の生活設計などできないまま暮らしてきた。本来は「住宅支援」ではなく、「住宅補償」であるべきだ、と主張。避難指示解除により「強制避難者」も「自主避難」にされようとしている、しかし私たちには避難の権利がある、必要な補償を受けられねばならないのだ、と訴えました。

 長田秀樹さん(北海道平和運動フォーラム)は、北海道には原発に関し三つの課題がある。一つは泊原発の再稼働問題、二つ目は幌延の高レベル核廃棄物の地層処分研究施設の問題、三つ目は、津軽海峡をはさんで23キロ先にある青森県の大間原発の問題だ、として、このうち泊原発、幌延についてお話をされました。
 泊原発では原子力規制委員会に再稼働申請する際、一番新しい3号機のデータを、1・2号機にも流用するインチキをやった。3号機だけは動かしたいようだが活断層の存在も指摘され、審査は長期化している。しかし予断を許さず、何とか再稼働を阻止したい、と述べました。
 また、幌延の高レベル核廃棄物の問題は、1984年、動燃が「貯蔵工学センター」を計画したが、反対運動により頓挫。しかし、「地層処分研究」に名目を変え、2001年から動き出した。核廃棄物は持ち込まない、期限は20年程度、などの取り決めはあるが、北海道民はここが最終処分場になってしまわないか危惧している。10万年後まで影響が心配されるなど、将来世代に責任を負えないことはしてはならない、これ以上核のゴミを増やしてはならない、と訴えました。

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 第一部のしめくくりのライブは「寿」。沖縄民謡や「前を向いて歩こう」など、のびやかな歌声が、公園内に響き渡りました。

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