被曝労働者のあらかぶさん
福島被ばく労働裁判を闘っているあらかぶです。私は福岡県北九州市の出身で、鍛冶工として働いてきました。2011年の東北大震災時テレビで繰り返し流される津波の映像を見て本当に大変な事になってしまったと思いました。東北の方々の大変な状況を思うと本当に胸が痛みました。その折、旧知の会社から福島原発事故の収束作業に行かないかと声が掛かり、私は東北の被災地の役に立つなら、自分の溶接の仕事が役に立つだろうと思い行くのを決意しました。
家族に相談したところ、両親や妻、当時まだ小さかったこどもたちにも反対されました。本当に悩みましたが、悩んだあげく仲間たちと行くことに決めました。
原発事故の作業現場では、まずその杜撰な管理に驚きました。例えば、平成23年11月からその24年1月まで作業をした福島第二原発4号機建屋の耐震化工事では現場監督の線量計が鳴っているのに大丈夫、大丈夫と言ったり、平成24年10月から平成25年3月まで従事した福島第一原発4号機のカバーリング工事では鉛ベストが20着しかなく、作業員の人数分無いという状況でした。
現場の状況はこんな劣悪な環境でしたが、私たちは福島のために一刻も早く原発事故を収束させたいという想いで一心で頑張って作業をしました。福島第一原発の雑個体焼却施設の設置工事に従事した、平成25年12月ごろから熱が続き咳が出る風邪のような症状に悩まされるようになりました。
年末に地元に戻り医師の診察を受けましたが、その際も風邪との診断でした。しかし、年が明け1月10日に電離検診を受けたところ、白血病と言われ目の目が真っ暗になりました。翌日から治療が始まり、胸骨に手回しのドリルで穴を開け髄液を採取する骨髄検針を20回以上繰り返し、輸血も50回ほど受けました。抗がん剤の副作用で、体中の体毛が抜け落ち激しい吐き気や下痢で医療用モルヒネを投与され、常に船酔いした状態でした。
85㎏あった体重もあっという間に65㎏に落ちました。敗血症で一時危篤状態にも陥りました。死ぬかもしれないという白血病の恐怖や妻やこどもたちを置いていくことの悔しさから夜も眠れぬ日々が続き、この時期にうつ病との診断もされました。
退院する時は、棺桶かと覚悟をしましたが、末っ子のランドセルを背負う姿だけは見たいと思い苦痛に耐え、平成25年8月に自家末梢血移植を行い退院することができました。
白血病もうつ病も労災認定されましたが、なぜ私がこの裁判を起こしたかというと東電は自分たちの責任としっかり向き合って欲しいからです。
私たち原発作業員は、何とか事故を収束させようという一心で作業にあたりました。しかし、東電はその作業員の思いに応えるような労働環境を用意するどころか、私たち労働者を使い捨てるような扱いをしてきました。危険な現場で被ばくのリスクを負いながら働く他の作業員のためにも力になりたいと思います。
私は、この裁判で東電のこのような姿勢・体質を明らかにして認めさせることで、今後この様なことが繰り返されないことを願い裁判を起こしました。皆さんのご支援をお願いします。
自主避難者の長谷川克己さん
私にとっては理不尽の連続でありました。原発事故直後多くの諸外国が原発から80キロ圏内の住民に避難指示を出したのに、なぜ日本政府は30キロ圏内に留めたのか。なぜ、日本政府は原発事故から間もなくして法律に定めていた国民の被ばく線量年間1ミリシーベルトの閾値を20倍にも引き上げたのか。なぜ、日本政府は予防原則に基づきこどもや妊婦は放射線量の低い地域へ避難させる等の処置をとってくれなかったのか。なぜ日本政府は、今も事故前よりも明らかに高い放射線量の地域に帰還を促すのか。その他にも数々のなぜが、私の頭の中を巡ります。
振り返れば私がまだ、福島に在住していた頃ネット通販で手に入れたガイガーカウンターを片手に福島県内いたる所の放射線量を昼も夜もなく妻と共に測ってまいりました。妻の妊娠が分かってからは一人で出かけ、帰ってから結果を報告するようになりました。夜を徹して何度も何度も話し合いました。そして、一つの決断にたどり着きました。もう、この国の政府、福島県行政を信じない。自分の子は自分たちで守る、という決断でした。
守ってくれるはずだと疑いもしなかったこの国に、ふるさとの行政に、諦めを付けるのはつらい決断でした。今までこの国に生きることを、この地に生きることを真剣に考えてこなかった事の報いだと思いました。こどもに申し訳ないと思いました。
しかし、そう決断してからは、黙々とこの地を離れる準備に取り掛かりました。東京から長年勤めあげた愛着深い会社を退職する準備。親御さんたちと力を合わせて除染活動をするはずだった、こどもの幼稚園PTA会長の辞任。親しい知人や親戚へこの地を離れることを告知し、政府や福島県行政が官製運動のように復興をうたい始めその気運が盛り上がり始める中でしたので、時には周囲の人に怪訝な顔で見られたり後ろ指を指されていることも承知でした。しかし、この子は自分たちで守ると決めれば何とでもないことでした。
ただ、返す返す悔しいことは本当はこの地に暮らすこどもや妊婦だけでも一時避難をするべきではないか。それは、政府が行うべき事ではないか。本来、私たちが後ろ指を指される事ではないのではないかという事でした。
そして、原発事故からちょうど5か月が経った平成23年8月11日の朝、私たち家族はふるさと郡山を後にしました。本当は前の日の夜に出るはずだったのですが、辺りが暗くなる中で出かけるのは、夜逃げみたいで悔しいと思い翌朝にしました。
我家から100m程の所にあった妻の実家に立ち寄り最後の別れを告げ、いよいよ車を動かし始めた時、当時まだ5歳の長男がバアバさよならジイジさよなら、さよなら、さよならと何度も何度も叫び声をあげました。その時、私はこのままでは絶対に終わらせない、この理不尽に必ずけじめを付けてみせるとの思いを心に刻みました。
もちろん、このとてつもない大事故には、私などではなしえないこと、そうするしか方法がなかったこといろいろな未熟があったことは推察します。しかしながら、日本政府は、福島県行政はこの5年間を掛けて行ってきたことは、私たちに対してまるで被ばくなどなかった、原発事故はコントロールされているなど策略される所業であります。このことに対して、改めてここで強く申し上げたいことがあります。それは、この被ばくをこの原発をなかったことにすることにしたいのは、本当は私たちの方だという事です。
7年前の3月12日以降、こどもたちの頭の上に大量の放射能が降り注いだ事を無かったことにしたい。自分の判断が悪かったことで、我が子に大量の被ばくをさせてしまった事をなかったことにしたい。住み慣れた愛すべきふるさとが放射性物質で汚されたことを無かったことにしたい。この先、こども達に健康被害が発生するかもしれないという未来など訪れるはずもない。そう、この原発事故を無かったことにしたいのは、私たち市民であり父親であり母親であります。
しかし、過ぎ去った過去を変えられるはずもないのであれば、この現実に目を背けずに直視し、真実を明らかにし、今からでも行える最善の処置を施していくことがこどもの親としてこの時代に生きる大人として私にできるせめてもの罪滅ぼしであり、責任であると考えます。声を上げれば波風が立つ、このこともこの7年間で充分承知のことであります。ただ、それでもやらなければならない事があると思っています。最後になりましたが、原発事故から2年が経った頃、我が子がまだ長男7歳と長女1歳の時に作った詩を拝読させていただき、私の話を終わらせていただきます。
-いのちを守れ くらしを守れ フクシマと共に 3・21さようなら原発全国集会- 発言内容②
2018年3月29日